GALERIE VIE

voice vol.12 / 読み解き、問う勇気。 美術批評・写真研究 村上 由鶴

  • 読み解き、問う勇気。

    voice vol.12 / Yuzu Murakami

    美術批評・写真研究

    村上 由鶴

    Photography | Yurie Nagashima
    Styling | Yuriko E
    Hair and Make-up | Momiji Saito
    Text and Edit | Yoshikatsu Yamato
  • ギャルリー・ヴィーのスタンダードアイテムをご着用いただき、
    多様な分野で活動する方々にインタビューをする“voice”。
    ものづくりに込めたこだわりについて語る、作り手の声とともにお届けします。

    美術批評、写真研究を行う第12回のゲスト・村上由鶴さんの初の単著
    『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社新書)は、
    作者と鑑賞者、それらを取り囲む社会との間に溝が生まれつつある「アート」と
    一人一派と言われるほどに細分化した「フェミニズム」をあらためて紐解く入門書です。

    この2つの概念は、重要度は増しながらも実態がわかりづらくなっています。
    しかし、本来は「自分ごと」あるいは「みんなのもの」としてもっと活用できるはず。
    そのための第一歩となる、知識を整理して読み解こうとする視点と
    自分なりの問いを持つ勇気について、村上さんに聞きました。

  • 美術館で直面した、圧倒的な謎。

    村上由鶴さんの活動の最初の時点には「?」があった。学生時代に訪れた美術館で見た作品に戸惑い、疑問を持つことは間違いで、もしかしたら自分には「センス」がないのかもしれない。「感性」の不足ではないか。そう考えたこともあった。しかし、村上さんは「わからない」という感覚に伴った当時の悲しさや落胆を率直に語りながらも、美術や写真作品から目を逸らさなかった。

    村上さん

    学生時代に美術館の展覧会に足を運び、「いい作品」だとされるものを鑑賞し、それを「いい」っぽく感じられることはありました。でも「それがなぜいいのか」というところまで行けていない感覚がずっとあり、それが気になっていました。美術館には誰かが評価したものが集まっていて、目には見えている。けれど、どうしてそれがそこにあるかがわからない。誰がどういうふうに感動しているのかもわからない。「何を見せられているんだろう?」という戸惑いや、苛立ちに近い感情、もうちょっとよくわかりたいのになあ……という悲しさを覚えたんです。

  • ジャクソン・ポロックの絵。

    村上さんのそんな「腑に落ちなさ」の決定打となる経験は、現代美術を切り拓いたアメリカを代表するスーパー・スター、ジャクソン・ポロックの展覧会に行ったときだ。村上さんは絵を前にして「絶望」と表現したくなるほどの気分になる。キャンバスに絵の具を垂らし、何か対象や風景を描いた、ということでもない「ぐちゃぐちゃ」の絵が、なぜ美術館にあるのか。キャンバスが発する見た目の迫力に感動できず、疑問ばかりが膨らんだ。

    村上さん

    私には、イメージを見て「刺さる!」と感じるような鑑賞のセンスがないのではないかと思えて悲しくなりました。今思えばあまりにも知っていることがなさすぎて、取っ掛かりになるようなものがなかっただけなのですが、そのときに「わからなくてムカつくから、もっと知りたい!」という気持ちにもなったんですよね。そんな自分の経験をもとに『アートとフェミニズムは誰のもの?』では、ジャクソン・ポロックの作品を取り巻く基本のキーワードを列挙して「読み方」を整理しています。アートは「見るもの」ではなくて「読むもの」である。つまり、見て、ただ感じるだけがアートの受け取り方ではない。アートの「よさ」は個人の印象や、各人のセンスによる感動だけではなくて、鑑賞の能力の高さに関わらずみんなが使える評価のコツやポイントによって決まる。私のように、アートに向かい合ったとき、「はてなワールド」に突入してしまう人を本来的にはアートは見放さないものである、ということを、過去の自分に説明しようとしているところもあるかもしれません。

  • 「批評」の役割。

    そのようにして、本や雑誌をはじめ、POPEYE Webでは「おとといまでのわたしのための写真論」と題して、気楽な語り口でありながら鋭い角度から写真を論じ、幻冬舎plus「現代アートは本当にわからないのか?」では美術作品や展覧会のレビューを書き、さらにはThe Fashion Post「きょうのイメージ文化論」で歌手のビリー・アイリッシュやハリー・スタイルズといった海外のセレブの言動やプロモーションについて語るなど、さまざまに考察を紡いできた村上さんの文筆活動には、今のところ「批評」という名が与えられている。批評、これもまた、実態が掴みかねる概念かもしれない。

    村上さん

    私にとって美術作品について語ることは、作品が持つエッセンスを「共有可能なもの」にする作業です。丁寧な、親切なものにする。噛み砕く。そういうニュアンスですね。子ども時代、ボーリングをするとき、球がガーターにならないようにバーを出すことがありましたよね。私にとっての批評をなにかにたとえるなら、そのガーター防止装置のイメージです。

    ボールが鑑賞者の意識だとして、作品の意味合いやコンセプトはピン。作品の完全理解が10ポイントだとしたら少なくとも1本は倒せるようにする。もちろん完全な理解なんてありえないのですが、鑑賞者の意識をアーティストが表現したいことまで届けるために、ガーターを防止する。鑑賞したのになにも受け取れずに「で?」となってしまうのではなく、その一歩先に一緒に行きたいというか、鑑賞者の意識が表面にとどまらず、向こう岸に届いてほしいなと思っています。そのアプローチの過程をガイドするのが、自分にとっての批評の役割です。

  • さらに、フェミニズムとは何か。

    そして、作品に向かいあい、それを読み解く際の視点のひとつとして、村上さんが批評と組み合わせるのが「フェミニズム」だ。『アートとフェミニズムは誰のもの?』で、村上さんが「フェミニズム」の定義として紹介するのは、『フェミニズムはみんなのもの:情熱の政治学』を書いた黒人女性のフェミニスト、ベル・フックスの考え方である。フェミニズムとは「あらゆる差別の撤廃を目指す”反差別”の理念」であり、それはいわゆる「男性と女性の争い」ではない。どういうことか?

    村上さん

    フックスは、男性や女性であるという属性、それらの違いそのものを問題視するのではなく、それによって「差別が生まれること」を問題にしています。つまり、違いは認めながらも、その違いを理由にして誰かが仲間はずれにされたり、抑圧されたり、そうして端っこに追いやられたグループが、特定の役割や、こうであるべきだという規範を一方的に押し付けられることはあってはいけない、という考え方です。

    あらゆる差別の撤廃を目指す。これって男性にも、というか、すべての人が実践できることですよね。こうした理解から考える、私なりの「フェミニズム批評」とはなにかを平たく言うならば、作品や社会事象、日常生活のさまざまなシーンにある不公平や抑圧をまずは発見し、そして、それを温存するのではなくて、解放する読み方へと向かっていく態度なのだと思っています。

  • GALERIE VIE DIRECTOR’S NOTE

    カシミア100%のセーターと聞くと、柔らかく、ふんわりとしたものをイメージする方は多いかもしれません。しかし、ギャルリー・ヴィーの定番であるカシミアのハイネックセーターは、気兼ねなく長いあいだ着られるよう目がぎゅっと詰まっています。ブランドのなかでも特にハイクラスな素材のカシミアですが、色のラインナップを無難に揃えるなど、引き算の考え方ではなく、他の洋服にはない遊び心を足しています。袖口にブルーをあしらい、また二重になったハイネック部分の内側にブルーを配し、ターンバックをするとその色が見えてきます。

    上質な素材のものは価格も張るもの。それは、短いスパンで買い替えるものではありません。ともに時間を過ごし、育てていくことができる質実剛健な部分を持ちながら、しかし、ベーシックではなく、着こなしの幅が広がるようなユーモアが細部にひそんでいる。そうして生まれたカシミアのセーターは、安心感のある確かな質と、さまざまな着方を見つけて愛着を育てられるような可能性を兼ね備えています。

  • 読み方の共有から生まれる、他者への想像力。

    違いを認めながらも、それぞれの属性や境遇にあてがわれる決めつけや役割の押し付けの不当性には敏感であろうとする態度は、日常のなかの、ちょっとした会話のなかでも育まれる。たとえば、ある映画について感想を話し合うとき。それぞれの異なる境遇から見えてきた側面を共有してみる。すると、そのひとつの映画は、いくつもの「読み」によって豊かなものになっていく。

    村上さん

    たとえば、自分の経験からは思いつかなかった「私は田舎出身だから、ここは共感できなかった」とか、「私は今子育てをしているから、ここは共感の嵐」という感想が聞けると、そんな見方があったんだと驚きますよね。違いを前提にしながら、じゃあ、ここってリアルなの? リアルじゃないの? と、それぞれの立場だからこそ読み取れたリアリティを交換すると、そこから、社会構造の問題、差別や抑圧があることに具体的な想像が及んでいく。フェミニズム批評のまなざしを日常で使えるようなシーンで考えてみるとしたら、そういうふうに、それぞれの立ち位置で受けてきた、さまざまな強弱の不公平をつぶさに捉えて、言語化するという実践がまずあると思います。

    女性ならこうでなくてはいけない、男性はこうであるべきだ。田舎出身の人はこうであるはずだ、母親とはこうあるべきである。こうした一方的な決めつけを「決めつけている」とさえ気づかずに温存してしまうのではなく、読み解くことによってまず発見して問いのきっかけにしていく。アートやフェミニズムがそんな思考のためのツールになったらいいなあと思っています。

    ファッションは、「見る」という受け取り方が優位な世界だろう。直感やセンス、そういった印象のものさしで判断して済ませてしまっていたからこそ「これしか似合わない」と断定していたり、「自分がこれを着たらダメ」と決めつけていたことがあるのかもしれない。あるいは、人の服装に関しても、素早いジャッチをしてしまっていたり。しかし、村上さんの話を聞いていると、別のアプローチがあると思えてくる。

    ファッションに対して、衣服に対して「読む」という姿勢で臨んでみたい。生地の質感、色、かたち、作り手の考え、素材の産地や作り方、アイテムの歴史、流行との距離感。そして、それらが着る人の生活にどのように関わっているのか。こうした要素を、自分が身に着ける洋服がクリアすべき「条件」として固定するのではなく、むしろ、よりファッションを豊かに楽しむ糸口にする。

    そして、自分の着る物と自分の関係について、共有可能になったことを人と話しながら自分の装いについて考えを深めることは、ファッションとより深く、濃厚な関係を結ぶきっかけになるのかもしれない。

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