voice vol.3 / 哲学研究者 永井玲衣「ただ、立っている。」
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GALERIE VIE
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voice vol.17 / Kakuro Sugimoto
わりきれなさと向き合う。
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編み、伝える。
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voice vol.15 / Masaki Hayashi
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voice vol.14 / Kujira Sakisaka
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voice vol.13 / Satoko Kobiyama
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voice vol.12 / Yuzu Murakami
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voice vol.11 / Renge Ishiyama
永遠に片想い。
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voice vol.10 / Haruno Matsumoto
描き切らない自由。
絵本画家・イラストレーター 松本春野
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voice vol.9 / Ami Takahashi
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voice vol.8 / Asa Ito
体の側から考える。
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voice vol.7 / Akiko Wakana
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voice vol.5 / Chiho Asada
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voice vol.4 / Mariko Kakizaki
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voice vol.3 / Rei Nagai
ただ、立っている。
哲学研究者 永井玲衣
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voice vol.2 / Midori Mitamura
記憶を紡ぎ直すアート。
現代美術作家 三田村光土里
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voice vol.1 / Maki Onishi
肌ざわりがもたらすもの。
建築家 大西麻貴
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ただ、立っている。
voice vol.3 / Rei Nagai
哲学研究者 永井玲衣さん
Photography | Yurie Nagashima
Styling | Yuriko E
Hair and Make-up | Hirose Rumi
Text and Edit | Yoshikatsu Yamato
ギャルリー・ヴィーのスタンダードアイテムをご着用いただき、
多様な分野でユニークな活動をする方々にインタビューする“voice”。第三回のゲスト・永井玲衣さんは、
学校や会社、お寺やカフェ、美術館などさまざまな場所で哲学対話を開いてきた哲学研究者。著書の『水中の哲学者たち』(晶文社)では、身近な出来事から問いを立て、
深く潜水をしていくように「手のひらサイズの哲学」を綴ったエッセイが話題になりました。
そんな永井さんの日常は、ぼーっと立っている時間や散歩が欠かせないそう。
取るに足らない出来事から始まる哲学的思考についてもお話を聞きました。
せめて、携帯を見ている人にならなきゃいけない?
ただ、立っている。ただ、座っている。
1日のうち、何もしないで、ただぼーっとしている時間はどれくらいあるのだろう。何もしていない自分を不自然に感じてしまい、いつも「せねばならないプレッシャー」がかかっていると自覚した永井さんは、日常のなかの取るに足らないと思われる出来事を言葉にして保存する「ただ生きているだけ日記」を書いてみようと思った。永井さん
私たちが生きている社会には、役割を持たなきゃいけない、肩書きを持たなきゃいけない、何かを成さねばならないといったプレッシャーがあるように感じます。ただ存在(Being)しているだけでは足りなくて、行為(Doing)をしないといけないといった圧力です。
あるとき、ぼーっとするのって難しいんだなと感じてしまうことがありました。空き時間があったら、活動をしなきゃいけない。外でぼーっとしていると不審者っぽいというか、危ない人に思われてしまう。せめて、携帯を見る人に、本を読んでいる人にならないと。誰かを待っている人でなければいけない……。役割を持っていないと、ただ立っていることも微妙なんじゃないか。こういうことから解き放たれたくて日記を書き始めて、これから本になる予定です。
ままならないときの散歩
文芸誌をはじめ、WEBでの連載の執筆、哲学研究、その他のプロジェクトに繋がるアイデアや飲み会の思い出、ふと思い出した幼少期のワンシーンを整理するため、日々、何駅もの区間を歩いて移動することも多いという永井さん。行き先のない散歩もまた、生きていくために必要不可欠な習慣だそう。
永井さん
目的地を決めないで、ひたすら陽が当たっている方に行くとか、虫みたいな行動原理で歩いたりしています。迷い込んで疲れたら、Googleマップで帰り道を検索する。遠出ではなく、近所や大学の周りなど、慣れている場所を念入りに歩くのが好きかもしれません。馴染んでいる場所にもまだまだ知らないことがある! と思える経験が嬉しいんですよね。毎日通る商店街のアーケードに、謎めいた三角のモニュメントを発見した日は、すっごい嬉しくて、つい走ったりして(笑)。
歩こうと思うのは、ままならないとき。よくわからないけど、考えられないとき。このままではしんどいと思うとき、歩き出すと問いが生まれて、動き出していくんですよね。電車に乗っているときは景色がばーっと変わっていくからなのか、問いが生まれやすい。一時期、私の原稿には「電車に乗っているとき」っていうフレーズが沢山ありました。哲学対話の3つの約束
永井さんは、小学校から大学まで、企業や美術館、お寺に足を運び、そこに集まった人々と哲学対話を開いてきた。行く先々ごとに異なるテーマで問いを立て、ときには知らない人同士がともに悩み、対話を重ねる。答えとなるような知識を永井さんが説明したり、一方的に語ることはなく、集まった人たちが言葉を交わし合うコミニュケーションの場だ。
永井さん
対話のはじめに、みんなで気にしたいことという感じで、私から伝える3つの約束があります。ひとつめは「人の話をよく聞くこと」。活発に話したり、良いことを言おうとするのではなく、お互いの話をちゃんと聞くこと。じっと聞くだけではなく、この人はどういう立場で言っているのか。どういう前提があるのかを想像することも含めて「よく聞く」です。
ふたつめは「偉い人の言葉を使わない」。哲学対話というと、哲学という言葉のせいか知識を披露しないといけないと思うかもしれませんがそうではありません。借りもの言葉じゃない言葉で話そうとしてみよう、ということです。
最後は「人それぞれはナシ」という約束です。対話をポイントに置いているのに「人それぞれだよね」と言ってしまうと終わってしまう。どこが違うのか、本当はバラバラではないのではないか。そうして、手を伸ばしあうことをしてみましょう、ということです。
人と集まって話すことに、傷つきすぎてきた
大学時代にはじめて哲学対話に参加したという永井さんは、今こうして、さまざまな場所で哲学対話を開く動機のひとつに、学校や社会経験のなかで、会議や、話し合いの現場で生まれる「傷」の経験があったという。
永井さん
そもそも私たちは、人と集まって話す場所であまりにも傷つきすぎている、という実感があります。この言い方だと伝わらないかな、こういうふうに言ったら怒られるかなと悩みながら発言して、それって正解なんですか? と問われることにビクビクしてしまう。
それは、実際に傷つきやすい社会で生きてきたからだと思うんです。私でいえば、配信番組に出たときに「もっと笑え」とコメントがつくことがありました。「話し方を優しく」とか。笑えば「笑いすぎ」と言われ「ヘラヘラするな」と。発言の内容ではなく、振る舞いに対する指摘がほとんどだったんです。そうした傷と距離を置ける対話の場所をつくりたかったのが、哲学対話をはじめた根本的な理由のひとつでもあります。
自分のなかでうごめく感情を眺めてみる
しかし、ひとりひとり生きてきた経験が違うと、考え方や、言葉選びの前提も違うため、哲学対話は必ずしも共感ばかりではない。参加者はお互いの「バラバラさ」を体験することになり、ポジティブな感情だけではなく、ためらいや苛立ち、こう言いたいのに、という悩ましさをふつふつ感じることもある。
永井さん
対話のあいだ、人から言われたことにカチンときたり、言い返したい、でも言い返すのは違うかも、というふうに葛藤したりするんです。これは、自分が何を考えているかについて、考えているということ。日常の会話だと感情や思考はバーっと流れてしまうけど、ここではそうではない。大学時代、これが対話なんだと思い知りました。
何度か続けていくうちに、こういう場所があるのはきっといいことだなって思ったんです。カチンときてしまう自分をへんに押さえ込んだり、こう考えるべきではないといって「べき」を持ち出さず、それも含めて眺めてみる。「こう思っとるわ〜自分」みたいな。そうして、自分自身を眺めることもまた対話の経験なんだろうと思うんです。
GALERIE VIE DIRECTOR’S NOTE
美しさと機能性は相反するものではなく、共存する。ギャルリー・ヴィーが大切にするのは、あくまでも着ている人の生活に寄り添う道具としての在り方を、洋服の美しさとする「用の美」という考え方です。しかし、とことんまで実用を突き詰めることによって、プロダクトに情緒が宿ると考えています。
リネンのシャツは、潮の香りが感じられるほど海に近い、浜松の機屋さんで織られたオリジナルの生地を使用しています。限界まで細くしたリネンの糸で高密度に織られているため、素材ならではの繊細なハリ感と綺麗なフシが生まれ、洗いざらしでも、シワはまろやかです。
デザインのアプローチとしては、過去に生み出されてきたシャツのパーツをひとつひとつ研究したうえで、最小限なバランスで採用。夏が来ると、蒸し暑い日本。そんな土地に住む人々が昔から身につけてきたリネンは、ぬくむ春や、汗ばむ夏に風を通し、乾きやすいのが特徴です。季節の移り変わりとともに、愛されてきた素材の個性を活かすことをまず考え、シンプルに仕立てたシャツの余白は、心地よい空白の場所としてからだを包みこんでくれるはずです。
わけのわからなさを信じる
本人は「ぼーっと」と表現するが、木のように凛として立つ永井さん。しかし、その文章では、ときに悩み、思考は行ったり来たりしている。擬音語が豊かに織り交ぜられた文章を読み進めていくと、「哲学」という言葉に対して構えてしまっていた身体がほぐれて、なんだ、これでよかったのかと許されるような気分になってくる。
永井さん
私にとって哲学は、世界の奥行きを信じる営みだと思っています。たとえば、手。自分の手を見て、これってただの手じゃん、と思いますよね。だけど、よく見るとこれ何? とも考えられる。手ってなんだろう。そう問うことは、世界の奥行きを信じることだと思うんです。
これが正解。と終わるのではなく、もっと問える、もっと考える。分かりやすくパキッとさせられているけれど、いやいや、世界ってもっと複雑で曖昧で、わけわかんないよねって信じられる。ある意味で、哲学的な思考とは、諦めないことかもしれません。ひとくちに「白いシャツ」と言っても、それは素材や仕立て、細部のデザインなど、さまざまな要素から成り立っています。潔くシンプルなものも、その裏側には、過去に作られてきたシャツとの対話があり、何通りもの可能性を悩みながら選択されてきた結果だということです。
自身のワードローブを、「なんとなく」気に入っていると感じられる心地よさがある一方で、なぜ、この洋服は自分にとってしっくりくるのか、着心地よく感じるのか。とりとめがなくても、うまくまとまらなくても、永井さんのお話を聞いていると、そうあえて問いを立ててみたいと感じられます。身近な洋服に思考をめぐらせてみることは、洋服との親密な関係を築くきっかけづくりになるかもしれません。