voice vol.8 / 美学者 伊藤亜紗「体の側から考える。」
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voice vol.8 / Asa Ito
体の側から考える。
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肌ざわりがもたらすもの。
建築家 大西麻貴
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体の側から考える。
voice vol.8 / Asa Ito
美学者 伊藤亜紗
Photography | Yurie Nagashima
Styling | Yuriko E
Hair and Make-up | Rumi Hirose
Text and Edit | Yoshikatsu Yamato
ギャルリー・ヴィーのスタンダードアイテムをご着用いただき、
多様な分野で活動する方々にインタビューをする“voice”。
ものづくりに込めたこだわりについて語る、作り手の声とともにお届けします。
第8回のゲスト・伊藤亜紗さんは、美学や現代アートを専門として
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院で教授をつとめ、
また、障害とともに生きる方に出会って、話を聞き、研究を進めています。言葉によって生み出されるカテゴリーや、抽象的な人間像ではなく、
当事者の具体的なエピソードに着目し、
リアリティーにふれあいながら研究を深める伊藤さんのアプローチとは。
出会いの記録を蓄積する。
見えるか、見えないか。言葉で切り分けると、二つの両端だけがあるように思えてしまうけれど、その間には、上下左右、向こうにもこっちにも広がる多彩な領域がある。どのように見えるのか、どのように見えないのか。それならばじゃあ、どう対応してきたのか。そもそも、見えるとは、どういう仕組みなのか。「できる」は優れていて、「できない」は劣っているのか? 言葉によって区切られたカテゴリーにいつの間にか貼り付けられた価値判断は、どこから来たのか?
伊藤さんは、著書の『どもる体』で、何かを話そうとすると最初の言葉を繰り返してしまう連発や、言葉そのものが出てこなくなる難発といった状態になる「吃音」の不思議に迫った。『記憶する体』では、さまざまな障害がある11人の方々に話を聞き、ひとりひとりがどのように体を使っているかに着目し、日々の生活に散りばめられた工夫のありようを、当事者と共に探求してきた。伊藤さん
自分の研究のメインは、さまざまな語りの記録です。一般的に研究調査は、募集する方の条件を細かく決めます。該当する方が応募をしてくださって、インタビューをしてデータにするのですが、私は、あまり条件を埋めていません。自分がすでに興味があると思っている方に限定せず「そのつど気になった人との出会いを記録している」くらいの気持ちですね。アーカイブはホームページで公開しています。そして、集まった素材をもとに、どんなことが語れるんだろう? と考える。抽象度が一段高い問いやキーワードを設定していくんです。それがまとまって本になるという流れが多いですね。
話を聞くときには、されたことがないだろう質問をするよう心がけています。待ち合わせをした時、右側に体重を乗せて立っていたら、「なんで、右側に体重を乗せて立ってたんですか」と聞いてみる。それは、本人が意識していないことに人生が詰まっていると思うからです。無意識の行為にこそ、習慣が表れる。体が勝手にしていることに、その人のならではのアイデンティティが垣間見えるのではないかと思うんです。
触覚を通じて、人と関わる。
そうして、障害のある方々と直接会い、インタビューをする機会に何度も自らの体を投じていると、伊藤さんのなかで、新たな関心が芽生えるきっかけがある。
たとえば、目の見えない人との面会では、話をする場所まで歩いて向かうとき、肘や肩に手を置いてもらって一緒に移動する。こうした触覚を伴う介助の経験は、書庫の奥で本にあたっていた伊藤さんに「触覚の目覚め」をもたらし、『手の倫理』が書かれる端緒になったという。伊藤さん
『手の倫理』は、出版したのがコロナが流行した時期だったので、失われつつあるから「触覚」について書いたのではないかと言われるのですが、そうではないんです。障害のある方とお会いするとき、インタビューの前後に触覚的な関わりがあり、「ふれる/さわる」という行いは、視覚的な関わりとかなり違うと思いました。そして、情報をインプットするにしても、人間関係にしても、私は視覚に依存しがちだったなあと実感したんです。
視覚は、対象と距離を取り、自分と切り離したところから観察ができます。そして、全体を一瞬にして認識できる。しかし、触覚は、初めて触れるものに対して、触れている部分の経験を積み重ねるしかなくて、触れ方を変えながら時間をかけて探ることでしか情報を引き出せません。こうした特徴から、西洋哲学の文脈では、触覚は低級な感覚とされてきました。
伊藤さん
しかし、時間がかかり、すこしずつ知っていくという触覚のあり方には、視覚にはない交渉の余地や創造性があります。そして、単純に、輪郭に触れられれる経験に、安心している自分も発見しました。体と体が接していて距離がない状態から、どう工夫するのか。触れることには、緊張感や暴力性へとつながるリスクもありますが、だからこそ、そこでしか成立しない「信頼」を基盤とした関係がありえるのではないかと思ったんです。
私たちが「これがコミュニケーションだ」と思ってるものとはかなり違う、濃密な人間関係がふれあいにはある。多くの触覚論は、感覚の話にフォーカスすることが一般的ですが、他人の体に「ふれる」、または「さわる」ことで生まれる人間関係の問題として、触覚を論じたいと思ったんです。
現場のリアリティーを記述する。
劣った感覚とされていた触覚が導き出す人間関係や、信頼や共鳴のあり方を探った『手の倫理』をはじめ、伊藤さんの著書に通底しているのは、ひとりひとりの個別のエピソードを捉えようとする、ミクロな視点だ。
社会的に、文化的に、といった、大きな視点からの考察ではなく、ひとりひとりの体験に根ざした分析。そこに展開される具体例の数々を読んでいると、優れている、劣っているといった既存の価値判断や、「できる」と「できない」といった、ざっくりとした二分法は溶け出して、使い慣れていた基準が揺らいでくる。できる人ができない人を支える福祉の視点も超えて、「障害」の捉え方が変わる。
伊藤さんの著書の多くは、ページをめくるごとに、ステレオタイプを壊す驚きに満ちているけれど、攻撃的なニュアンスはなく、切実でありながらもユーモラスな軽やかさがあるのも特徴だ。伊藤さん
認められていない存在を、当事者の声によって社会にアピールするプロセスは大切なことです。70年代の障害者運動など、大先輩たちの切実な訴えがあったからこそ、法律や制度が改革されてきた歴史があります。しかし、怒りをともなった社会運動の語りは、ときに、シンプルな言説に陥ってしまうことがある。スローガン的な表明は、障害の複雑なありようや、できないことが引き出す工夫の多彩さを消してしまうことがあります。
たとえば、吃音であれば「吃音の人が、吃りながら生きていくことを社会に認めさせよう」という主張があったとします。「どもりも一つの喋り方だ」という言説があったとする。でも、実際に吃音を持っている人の感覚や体験は、もっと複雑で繊細で、工夫に満ちています。私も吃音があるのですが、たとえば話すときは「言い換え」をしています。ある単語を言おうとするとき、詰まりそうであれば、同義語に言い換える。「テーブル」と言わないといけないときに、連発といって「テテテテテーブル」となってしまいそうだったり、難発といって言葉や息が詰まりそうであれば、「机」と言う。
「どもりも喋り方だ」という言説からすると、こうした喋り方を身についている人は、なぜ堂々とせず、あるがままに喋らないんだ? と言われてしまう。吃音を「隠している」ということになってしまうんです。でも、生まれてから吃音と向き合って工夫してこの喋り方獲得してるのに、シンプルな言説によって自分が否定されるのは困りますよね。視覚障害でもそうです。見えない、ということへの対応として、ひとりひとりが多様に培ってきたリアリティがあります。私は、ひたすらその面白さにダイブしたい、記録したい、伝えたいと思っています。それが結果的に、硬直しているものを柔軟にすることにつながったらいいと考えているんです。
GALERIE VIE DIRECTOR’S NOTE
両畦編みの凹凸感とリネン100%ならではのドライなタッチは、身体の動きにまとわりつかず、離れ過ぎず、肌にリズミカルな感触を与えます。植物の繊維であるリネンは、ウールやカシミアなどの動物の毛と違って素材に伸縮性がないため切れやすく、編むのには高度な技術を要する素材です。
ギャルリー・ヴィーでは、素材の質を追い求めるだけではなく、肌と衣服との、最適な距離を見極めた服づくりを心がけています。肌にふれる面積が少なく、しゃりっとした感触のニットは、体にタイトにフィットさせるのではく余白をもたせたパターンにしました。このように、肌への触れ方のバランスを調整することで、涼しく、春や夏にも、風が通り抜けるニットになっています。
体の側から考える。
さいごに、伊藤さんに、服との関わりのなかで、印象に残っているエピソードを聞いた。ファッションは、どうしても「見た目」の問題で語られることが多い。あるいは、時と場合に合わせた服装、年齢に合った服装、性別に沿った服装、といったような、いつのまにか暗黙のルールとなってしまった社会規範とも、無関係ではない。けれど、たとえば、「着心地」について、たったひとつの自分の体の側にとどまって考えてみるとしたら?
伊藤さん
素材レベルでの着心地のよさは、もちろんあると思います。でも、それと同時に、洋服のパターンが着心地にどう関わるのか、ということに興味がありますね。大学生のとき、あるジャケットに感動しました。そのジャケットは背中の身頃がすごく狭くて、着ると背中側の生地が突っ張り、肩が開き、おのずと背筋が伸びる。歩いてみると、手が前後に揺れるのにともなって、ジャケットの左右の合わせがパカパカしたんです。
そのパカパカによって「歩いている」と感じられるのが気持ちよかった。鳥みたいな気分というか。そんな感動を覚えて以来、パターンが作り出す動きもまた、服の心地よさに影響があるんだと思っています。体は、思いのほか勝手にいろんなことを感じている。これは好み、これは嫌い、と頭で判断していることのほかにも、あの服に、手が伸びる理由があるかもしれない。あえて、自分が気に入っている装いやファッションを、社会のルールや文化的な来歴と接続せずに捉え直してみる。あえて心の話も持ち込まず、体との連動を具体的に感じてみる。
冬から春へ移り変わり、気温が変わり、肌のうえに重ねるレイヤーにも変化のある時期に、着慣れていた服と出会い直す。たったひとつの自分の体との関係から服の動きや肌との関係を感じてみる。
伊藤亜紗 ウェブサイト
asaito.com